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日常の裏

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 前日までは夜勤週にて、娘の幼稚園送り迎え等任され躍起になっていたが少々娘自体の体調が悪く先にお医者行ってから幼稚園行った日も有ったしそれに加え母親やカミさんも体調を崩し始めてた、そして夜勤明けの土曜日、昼前に目覚めると娘が近くでうつ伏せでコロンしてて、熱を測ると40℃で慌てて医者へ行った…投薬してもなかなか熱が下がらず夕方に掛けて寝ていたせいか、夜中前に空腹訴えて作り置きの焼きそばを食べさせ、カミさんと3人川の字で眠り始めた真夜中1時過ぎが2時過ぎか、両親が暮らす下階にてバタバタと足音が響き出し目が覚める、カミさんが様子を観に行く、自分は娘を尻目に状況を見守った、幾度か在るケースで親父が救急車で運ばれる様子、チラリと窓から表玄関を覗くと親父が受け答えしている様子が伺え、搬送された、いつも通りすぐ(朝方か?)戻ってくるものだと思っていたが。

 どうやら親父が搬送される病院へ全員来て欲しいとの事だ、切迫した状況である事を危篤と言われてもピンとせず遠くで暮らす姉夫婦にも当初「待機してて欲しい」と連絡を入れてしまい、カミさんがすぐ来るように連絡を入れ直したから、親父を直接見てたカミさんの様子伺うにようやくシャレにならない状況なのだなとふつふつ呑み込んでいた、拾うのに少々あたふたしたタクシーの中で3、40分揺られただろうか、到着後入口近くの病室に案内され、そこではこちらを向いて立っている母親が一言「逝っちゃたよ」って、後ろには横たわる親父の亡骸が在った、もうあの状態は亡骸だろう。

 ある種儀式的な死亡通達を若い女医が執り行っている、病院着いた頃は既にほぼ駄目な状態だったらしいのだが当直のスタッフは全員女性だったので後日親父の死に顔が笑顔に見えたのは生前の痛みからの解放と捉えていたがもしかしたらこれも一因在るかも知れない、女の子達に囲われて死ねて良かったじゃないのとも思ってしまった、不謹慎かも知れないがスケベに正直だった親父らしい事案でも在る、これからの病院側の対応を淡々と受け、姉夫婦の到着を待った、時は早いのか、ゆっくりなのか、カミさんはある資格の講習をここ毎日受けていて丁度この日が最終日なので寝ずに大変だったけど彼女の希望を通し朝から講義へ、娘は起こされてからずっと起きっ放しで在る、業者が到着し、親父の身体に清掃が施され、一路自宅へ搬送して貰う。自分達は姉夫婦の車で帰宅する、既に眩しい朝になっていた、ホールにて親父を布団で寝かせとりあえず一息、ついたのだろうか、カミさんが出掛けるまで、自分の部屋でカミさんと並んで少し横になった。

 少々仮眠した後カミさんを見送り、娘と下階へ、親父を北枕に動かしている所、親戚筋も幾人か集まっていた、親父の意向で葬儀は行わない、連絡も親兄弟と町会位、家の外じゃ何やっているかなんて、ましてや死体がそこに在るなんてわかりゃしないだろう…まず一つの問題がこの遺体の取り扱い、実は献体を希望している、その献体する側の希望で翌日午前には引き取ってしまうとの事、保管方法もドライアイス使っていいかどうかとかまあその辺は連絡取り在って収まった様子、近くの葬儀屋さんがドライアイスを持って来てくれた。胸に抱えさせて再び布団をかぶせる、実際取り扱いに関して言えば一日位だったらエアコン流しっぱなしで何とかなるらしい、生憎ホールはエアコン使えないように止めちまったし他冷房器具は下階には扇風機ぐらいで…でドライアイスになった訳だが。この日は親戚筋の偲ぶ話等で一日過ごす事になる…自分は奔走されると思ったが以外とする事がない、どうも親戚の輪に入りたがらない娘と神社行った時、途中物凄くわがままぐずり、手を焼いたのだが。夕方になって皆ビール呑みだしたので自分も少し、とふと死亡診断書確認したら性別が女になってた…ヒューマンエラーとしてはあまりに酷い様にも思えるがまあこの辺も再発行したの自分が取りに行って事無きにしたけどね。生前酔っ払っていた親父から“オカマになりたかった”なんて話も聞いたのだがまんざら嘘ではなかったのだろうか。親戚達がまた明日と帰宅してカミさんも戻りウチら家族ホールに残り、これから何すべきか少々話しした後、各々眠りに就く事にした。母親は父の隣で、姉は普段は母の眠る部屋で、兄と俺は普段暮らしてる部屋でね。

 翌日、ホールに顔出すと既に母と姉は起きており、コーヒー飲んでいた。自分はウチら正装しよう、と提案したら親父の事清掃するのかと母は聞き違え慌てていた、親父と別れる時間が近づく、なにはともあれ、今果たすのは見送る事、親戚も望みを通してくれたし、こちら側としてもまあ、負担が通常より掛かってないはずで。再び親戚達が別れの挨拶に、親父を搬送する車が予定より早く到着する、皆でシーツを持ってキャリアーに移し、車に運び込まれる、カミさん曰くウチら子に当たる兄姉俺を親兄弟より遠慮がち過ぎるので背中を押したとのことだが自分がその時嬉しかったのは親父が車に入った時、兄と姉が娘と手を繋いでいた事だ、俺が子を持つ事を認めてくれたのだと勝手に解釈している…本当は家族揃ったし晩飯一緒に、と思ったのだが各々用事が在るみたいだし何より疲れているので適当に解散となった。ウチらは娘を医者に連れて行き、翌日から幼稚園に通わせた。

 自分は、会社の忌引をフルに使わせて貰う事にした、お蔭でカミさんとこの居候状態?幼稚園の送り迎え、以外はカミさんの買物について行ったり、それ以外はだらだらしてる生活で家族からもあまり声が掛かってこない、まあたっぷり休んで親父が死んだ事に向き合っているとこ、たまに沈んだ表情見せてカミさんには迷惑掛けてる、まるで誰か憑依したんじゃないかと思える我がまま病な娘も相変わらず体調宜しくないものの、平静を取り戻して来てる。アトは俺だけかなあ…




 娘が高熱を出した。

 買物中、兄貴に娘を見て貰い、御礼にビールを渡した。

 アーバンギャルドをipodで聴きながら焼きそばを作った。

 娘が夜に目を覚まし、空腹を訴えたのでその焼きそばを与える。

 下階の足音で目覚め父が搬送される。

 病院に到着した時、既に父は亡くなっていた。

 若い女医達に囲まれていた。

 病院の地下通路の臭気は人間も動物なのだと気付かせる。

 鼻から漏れる体液も生々しく。

 死亡診断書の性別が女だった。

 予定よりも早く遺体引き取りが到着してしまった。

 恐らく、ウチらは満点な家族では無い。

 兄も姉も、性格の強い親父に振り回されたに違いない。

 結局あまり息の吹きかからなかった自分が新たに“家族”を、持てたと言う事。

 これだけは言える。

 父がいて母がいて兄がいて姉がいて。

 自分が一番、この家族が好きだ、この家族の人間達が好きだ。

 娘を育てるにあたり、自分は親父を見習わない。







父が亡くなりました、享年73

お迎え

今日、初めて娘が通っている幼稚園に“お迎え”に行った。

一人では初めて、と言う事である。

近所の幼稚園ゆえ、自宅で今かと待機している内

自分が“お迎え”されていた頃を思い出した。

娘と通う幼稚園は違うのだが近い位置にあるので

少なからずシンクロしている、させているのだろう。

当然ながら母親と帰ることが一番多い、

何故か橋の所で幼稚園の方向に足を向け大泣きした自分がいた、

親父の人差し指を握って帰った自分もいた、

皆帰ってから先生と二人、そしておばあちゃんが着た日、

頭の絆創膏をさすりながら帰った日、

あの頃は踏切の音がヤケに大きく感じていた。

それに比べ歩む道は短いものの

娘は何を考えて自分と歩いているのだろう、

やけに眩しい空の下、水筒の水を度々飲んでいた娘、

この日は記憶の一断片になるのだろうか?

そう言えば抱っこをせがんだな、

しなかったけど。



また



一緒に帰ろう、


ね。

雑感5-父親

 久々にこの手、内容は母親同様、それとない事?、?、?

休日の夕方、自分は大概、娘と両親の住んでいる下階へお邪魔してビール一杯飲んでいる訳だがそこでの親父とのやり取り。

父「土曜日の新聞でさ、仏教みたいなとこの特集で連載してる●●●●(あえて伏字)って知ってる?

俺「うん、1,2度位は観た事在るし良く行ってたライブハウスとかでも月1位は出てたよ、近しい人にもファンが居るみたいだし

父「まあそれはともかくさ、そいつが最初の連載の時さ、初めて雑誌出たとか何とか言っていたのは…

早く言うとその雑誌を持っていると言う事らしい、その雑誌は自分が生まれる少々前に発行されたとのことで父は自分の部屋である地下にいったん潜る、母が娘に「おじいちゃんどこ行ったのかねェ」と問いかけるのでその雑誌探して居るんでしょ、と俺。

今の時代にしたら少々大判の某誌には確かに若い頃の彼と見られる写真が在り、対談と言う内容で一頁、当時26歳との事。と、その事はまずさておきその古い雑誌に興味持って一枚一枚目を通すと親父がその雑誌を購入した理由が激しく理解出来た…“彼”の数ページ後に若かりし頃の親父の写真…トリマーやっていた頃の、“犬の美容室”と言う特集で親父の写真下には“犬とひげを競っているようなトリミング・ルーム主任 たいへんな犬好きで ダックスフンド5頭をはじめ 10頭近い犬を飼っているとか”と書かれている、確かその写真は幼少時家で店やってた頃飾られていた物で覚えが在る、彼と写真のサイズは同じ位だが親父の顔のがでっかく出てます…カミさんに見せたら一発で親父の若い頃と分かったらしく感嘆してました。

これって誇っていいですか?息子として、嬉し恥ずかし、そんな気分の私は41歳。

追伸、その1頁後ろは“おいろけ満点○○ミュージックホール”

見たい方は探して下さい(いねーよ)

GW

 4月28日
通勤用定期の継続がてら娘を会社前まで連れて行く、近隣の公園にてシーソー初体験。

 29日
オリンピックでお買い物等(娘付)、公園に行きたいと言うので品物置いて近所の公園、同じ位の子供と少し仲良くブランコ砂場、滑り台。

 30日
河口湖へ、カミさん両親手配、特急で、娘初めて富士山を観る(多分)、宿泊先ホテルの近くに住むカミさん弟夫妻両親宅にお邪魔、山桜が満開できれいだったが娘はタンポポと戯れる、湖畔を歩いた休憩中に娘は近くの子供達がフリスビーをしていてそれに溶け込む、ホテルで会食後、娘と露天風呂へ、気兼ねなく露天入れるのも最後かなとはカミさんとの会話(翌日も娘と入ったが)

 5月1日
チェックアウト後、オルゴール美術館、当初は富士急ハイランドが予定だったが女の子ぽいのが良いとの事で決定、娘想い出の品はピアノ型オルゴール、曲は月光(ベートーベン)、関係無いけどロリータファッション二人程発見、ほうとう食べて特急で帰宅。

 2日3日
2日娘幼稚園送り迎え後、カミさん両親宅にお世話になる、だらりと過ごす。

 4日
昼頃帰宅、実姉夫妻が来ているとの事で会食、カミさん方のそれと比べ会話が少ないというのはウチらの血なのだろうか?静かだったのがいつになく気になってた。

 5日
カミさん翌日は勉強で出掛けるので3人揃ってはGWラストって事で、野方で昼飯食ってからは沼袋の氷川神社へ、少し大きめの神社だが七福神の像があり、寛げる場所だった、しかも一組結婚式してて立ち会えちゃったのでした、その後中野ブロードウエイにて少し買物、帰宅。

 6日
カミさんが出掛けた後、突発ながら予定を考える、パソコンと対峙しつつ結果は代々木公園と出た、緑も多いしサイクリング体験させたかったし、てなことで原宿駅に向かう、駅出てから手前の明治神宮も寄ってしまおうとお参りへ、本殿の景色がとてつもなく綺麗だった、これだけでもかなり歩くので娘はぐずったがその後の代々木公園の原っぱでは走りまくってました。娘にサイクリングさせ、小休止しつつ娘にシャボン玉吹かせながら出口を目指す。駅手前で雲行きがあやしくなりぽたついて来たので急いで駅を目指す、原宿の満員電車をちょっぴり娘に体感させた、乗り換え駅ホームではひょう混じりの嵐だったのか物凄い轟音だった、最寄りから自宅までは既に止んでました、カミさんの帰宅に併せレストランで晩飯、GWおしまい。

日本人に春を感じさせるキーワードとして桜が在る、少なからず私は毎年桜の花を観て春を当たり前の様に感じていたと思う、歳を重ねて実感も強くなっていく、やっぱ春は桜で新年度のスタートなのだと思う訳で。

娘と散歩がてら近所の桜を花見する、本当に観たかった場所はとりあえず後回しにしていつものように神社へ、ここの神社にも桜はあるが、妻が「向こう、きれいよ」と指を差す、それは神社の隣のお寺の桜達だ。実はと言うとそこのお寺の隣は、自分が通っていた幼稚園が在って当時は度々行き来して居た寺である。そうした数十年来の所へ私は娘を連れて足を踏み入れる、当時の記憶の断片が場所ごとにひらひらと現れてくる、お泊まり会をした本堂、娘の目にもひときわ大きく映っているであろう鐘、これらを娘に紹介している自分は逆に桜が見守られているかのようだ…出口は幼稚園の入り口を通った、この想い出の地も間もなく休園との話。

 明後日は娘の入園式で在る、想い出も希望も、春は総て、桜の彩り。

海を観た

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娘に、海を観せたかった。

もしかしたら、妻の腹の中で聴こえていたかも知れない波の音、それはこの様な物だと

そんな海も、昨年だけでの話ではないが時より私達に猛威をふるい、いたたまれない感情をもたらす事さえある、

妻と、娘と海を観る、目に映る光景は時折猛威の片鱗をみせようとするのか、牙を剥くが如し私達に威嚇する波、繰り返され響く音は轟音の様で在れ、逆に静寂の様で在れ。そして左右にどこまでも続く真っ平らな水平線、そこから広がるどんよりとした空、足場は砂地、どれもが広大で絶大、対してそこで戯れるサーファーや波打ち際で遊ぶ親子連れや犬を連れて散歩する人達は、私達も含めその光景の中で何とも小さい事か。

逆らえる筈がない、抗える筈がない、そう思ってしまう。

ただ逆に、悲しみなどの感情も、何でも受け入れてくれるのではないか、そうとも思ってしまった。

私は多くの命を奪い、又は生命の源でもある海を目の前にして心で涙した。


この世に生を受け、2カ月に満たない命を再び腕に抱く事が出来た、
死して羨望されその世界で神と崇められた人物を被写体にした映画作品を観た、

その間に居る私は、家族を持ったのをきっかけとし、ようやく人生の道筋を掴もうとしている、欲から来る人が犯してしまう罪を認識し、時折負けてしまいそうになりながらも、なんとか持ちこたえて、それが振りであったとしても。悪戦苦闘した時期も、溺れた時期も乗り越えた筈だ。守るべきものがある、それを堂々と言わねばなるまい。


全てが麻痺した様な気がした、歩いて帰宅した以後2、3日、都合良くダメ男を演じてた、震災情報とACのCMに目を光らせてるうち、身体も鈍ってものぐさになって、とりあえずその日の勤務が無くなって安堵し家族で散歩した夕方、電車もろくに復旧してないのに必死に通勤帰宅方法を模索し働いている人達を尻目にしてたあの日からほぼ一年、私は家族で海を観た、私の人生の一断片である。

雑感4-詩

はいっ!1、2、3、詩っ!
しつれいしたした!

私は詩人ではない、文章詠み、若しくは志人を名乗る事は在った
人から言われれば詩人で在ってもいいし以前やってましたとも名乗る事が出来る。
その位曖昧な立場で在る、そう、朗読のイベントに行けば殆どの奴が詩人を名乗っている様に
自主映画のイベントで石を投げれば自称映画監督にぶつかる様に
ライブに行けばミュージシャンばっかり、何処ぞに行けば病人ばっかり
そんな自分が詩、らしい事を書いてやる、ミクシの日記とソネットブログにワードに書き溜め
コピーペースト、そんだけお気軽に今回だけはこいつは詩人みたいな奴だと
思う奴には思わせてやる。

私が詩、に面する機会
それは購読している新聞に書かれていたりする、
そう今メディアで話題らしい、ツイッタあたりで聴いた名前とかも
顔写真付きで載っていたりもするさ、そろそろ本題に入ろう
昨今観る詩で気が付いた事、見事なまでに時代を反映したと言わざるを得ない
震災、原発、諸々出来事に終わりはないのだと時代進む毎沸き出でたる情報達、
内容が暗い、暗い。暗いと言っていいのだろうか
個人的な印象として受け取って下さい
気分が暗くなって思わずcry、知ってる限りの英語も使ってみる
確かに素晴らしい内容だ、改めて知らされる事だって感じさせて頂いてもいるさ
作者の印象の記録だ、文章やら活字とやらに(規則的にか)変換された
言い出したらキリがない変化が在るにせよ
もうちょっとよ、
読み手に気を遣ってみろよ、ってのが
在ってもいいんでないかいと思っているのだ私は
メディアの情報の流し方ってのも自分も歳を重ねて曲りなりかも知れないが
多少はお利口になった気がするので大体のパターンは掴めた気がしてるんだ
だから詩、ってのはよ、もしかしたらそのパターン覆せるんじゃないかって思ってしまった
まあただ印象の問題だけかも知れないけどな、それで少しは心が
やすらげれば、ハッピーになるのなら、変に綴りは書かないぞ
それではここで自分が時たま神社で祈っている事を書かせて頂く
祈る復興、一人でも多くの方に笑顔を
かの日の暗い夕方を体験し、震災義援金の募金箱を前にして
少ない脳味噌を駆使して選んで思い付いた言葉を今の今まで使わせて頂き
きっと神様に通じていると信じて、信じて、信じて
同時に我が家族の幸せと、繁栄を祈らせて頂く私で在ります
だから出て来て欲しい、そろそろ出て来てもいいだろう
ほっこりと笑顔になってしまう様な内容の詩、がよ
押しつけがましいかも知れませんが!流れを変えるような素晴らしい人間!出て来い!
お前がやれよをと言われるかも知れません、その時はどうしよう…
言い出したからには責任負わされるのかな、笑って誤魔化そうか、あははははははははははは
無責任編集、PARAと在る場所場所にて名乗っている男

雑感4は、詩、であります。
ホントに雑感なのかは置いといて、多分こいつは尻切れトンボ

雑感3-代島治彦氏

“ミニシアター巡礼”読了。

著者は元BOX東中野の支配人、当映画館にはお客さんとして良く遊びに行きました。一人映画館鑑賞デビューがここで上映されてた“ねじ式”、閉館時一日中居着いたのも一つ思い出、著者本人に会う様になったのはここの名物?支配人だった山崎さんが一歩退いてから暫くしてだと思う、大した会話もしてないけど来場の御礼は度々だった様に思う。失礼ながら接点の在った人とさせて下さい、この本はそんな代島さんの傷心旅行?まあそう判断しちゃってもー…

日本国内に在るミニシアターの支配人、経営者。彼らの理念なり印象で共通して言えるのは石橋叩いて渡るイメージはなくダイナミックなもので生活なんぞ省みずに経営だの上映会だのと命を注いでる人達に見えた。代島さんが尋ねる度、方々でそんな会話が収録されてるように思うけど、12カ所尋ねて12カ所のそんな話読んでいると現金なものでそれが当たり前だろと感じてしまう自分も存在している訳で…個人的には歳を重ねた今になってようやく、彼等の活躍ぶりに羨望だけで無い何かを感じ取れているのでは、と思っている。過去の破天荒の傍ら現在のハコが在り将来を見据える、それぞれがそんな内容で面白く読めた。余談になるかも知れないけどそれぞれの映画館ごとに支配人、代表さんの顔写真が入っているのだが良く観るとすんげえいい表情してるんだよね、只者じゃないです、何かすらやらかす人の顔って違うんだよ、観れば分かる、つもり。

もしかしたら自分が都区内のミニシアターを歩いていた頃、その界隈の人に“こいつ何かやってくれるんじゃないか”と極小の確率で思われていたかも知れない、ふたを開ければ寂しがり屋の酔っ払いだったけどね。おまけのミニシアター史を辿ると現在に近づくにつれ閉館ラッシュで寂しい限りですわ、現状には抗えずとか自分がどうこう吠えようがまだミニシアターは点在しているし個性的な俺好みの作品だって提供され続けているのだろう、状況は厳しいだろけど、将来そういうのが何らかカタチが変わるにせよ残って欲しい物だ、そう思う。

おまけ、1、2回位だけど新潟シネ・ウインドと名古屋シネマテークでは何年か前にお邪魔させて頂きました、それとこの本の中で運んでみたい映画館を一つ上げると金沢のシネモンドかなあ、って、代表さんのコラム読んでるし。

雑感2-母親

ざっ‐かん【雑感】

雑多な感想。まとまりのない思いついたままの感想。とりとめのない感想。

…これを気にも留めず気軽に書いてます、今後もそのつもり。

続いて今回は母親について、古希を既に過ぎて年金生活、この日記をつけた日の朝、自分帰宅時に家の前を掃除していた、今でも生活についての良きアドバイザーで在り元気だ、そうそう因みに3世代同居ね。

若い頃の話では名画座かなんかの映画愛好会みたいなのの会員だったと言うから映画好きを引き継いだ?と言えば正しいかも、自分が見て来た母親はどちらかと言えば親父の趣味、商売に常に付き添い、一緒に楽しんでいた様子、小売店皮切りに社交ダンスとか旅行とか、親父の体調悪くなってからは各々隠居生活を楽しく過ごしているかな、そんな母ちゃんは基本居間でテレビ見てる、映画とかドラマとか録画して観るってのは昔から。

そんな母ちゃんに最近ちょっとした変化が伺えた、ちょくちょくお邪魔した時テレビにはゴルフ中継やフィギアスケートがとみに多くなった気がする、わざわざチャンネル合わせたりするのもしばしば、一緒に観ていてふと訊ねた。

俺「最近だよね、ゴルフ見るようになったの、なんで?

母「最近のテレビってうるさいの多いでしょ?ルール知らないんだけどさ、ゴルフは静かだし風景も自然できれいだから…

なんか感心した、うるさいのが嫌いなテレビ好きサンはゴルフがお勧めかも、あとフィギアってのは見た目美しさありき?なんで同時に理解してます…母ちゃんは構親父よりも長生きしそうな気がする(本心はして欲しい、両親共に)。

雑感1-しまだゆきやす氏

…本当は書きたい雑感を一遍に書いてみたいけど、気分の問題で書く気が起こらず、どんどんどんどん時間が無くなってあきらめてしまう、一つ思いついた対策はワードに書き溜めとく、何てこたない今までの日記の書き方だったりする。

 最初はしまだゆきやすさんについて書いてみたい、詳細はあまり聞いてないのだが自分が聞き入れた情報では既にお亡くなりになっている、自分の兄貴ぐらいの年齢なので一般で言われる人生の尺で言えば最高潮の時代で志半ばと言ったところ。自分がミニシアターだの、商業映画だの自主だのとの境界が見いだせた頃この人は定期的にイメージリングスという上映会をやっていてつまるところ仲間内?と言う事になるのだろうがジャンルに囚われず様々な作品を上映し、自分も共感させて頂いてた。とまあ、“共感させて頂いた”と言っちまえばそうなのか、と理解させるのは簡単だが…当時上映された作品一つ一つ理解出来たかと言えばそうでもない、パット観た目が面白い、出てる女優さんが可愛い、なんか変な事やってるとか印象的なとこ拾い上げて無理やり自分なりの理解してたかな、当時観歩いていたミニシアターの作品もそうなんだけど。そんな事しながらも観る目を養っていたと勝手に理解して、その内こんな一つの論理が出る“面白い人間が面白い作品をつくる”作品の魅力は作り手の魅力であり、スポンサーの介入がある商業映画より自主映画の方が極めて魅力的だと、そのスタイルで言えばバカ映画やドキュメンタリー、実験映画も範疇。この考え方は後々足を運ぶライブや演劇、展示やイヴェント事にも及び最近は仕事のやり方に至るまでそう思っている、人が仕事をつくり仕事の上手く行く行かないも人次第って、今更ながら、なのかも知れないけどね、それを知るきっかけを作ってくれた原点の人なのかも知れない。

 彼が上映会に精力的だったのは当時のパンフを振り返れば然り、上映される作品の監督とのインタビュー収録が大勢を占める(晩年は作品紹介に留まったのもあるけど)内容は今読んでも…理解出来なかったりするが(正直)いつも自分は文字を追って知ったかぶーカマしていたりしたのだが当時にょステータスだったりする、98年9月の18回上映会~03年10月のスペシャルエキシビジョンまでか?基本2、3カ月の定期上映で毎回ではないが当時のパンフレットが手元にある訳で、これはひっそりお宝にしようと思う、世間の価値など関係ねーし、彼がこの世に生きていた記録、様々な人、作品を提供した記録としてね。イメリン上映会の上映が聞かれなくなる後々映画作品の配給や、ガンダーラ映画祭、背徳映画祭…この辺はあまり足運んでなかったけど当時彼自身が名乗っていた“無冠の帝王”っての、それに見合う称号だったと思っている、忘れそうな頃にぽんぽんっと名前が出て来てなんかやってくれそうな感じがしたけどもうそれも無いんですね、兄貴。

 その兄貴自身がどんな作品作っていたかと言うと…ぶっちゃけ…一発印象はフェチの人…それをヨコシマと観るか“芸術”と観るかは観客に委ねていると思うが、マルチまがいに引っかかった彼女との破局とかをドラマとは違いあくまでも映像表現的に、アトは印象緑草が生い茂ったとこの撮影が多かったかな、廃墟とか、ちょっぴり外せないキーワードがプロレスネタでかつてのオーエンハート落下死とか前田選手が襲撃された事件とか絡めてる作品も在った、よなー…晩年(自分が拝見した中での)ビデオ作品になってからは私信では在るが女性的な感性があったかなあ、詩的とも言えるし、拝見したのは“志集売り”と近所の風呂屋の話だけだけど、理解は有耶無耶だけど印象はある、彼の特徴とスタイルの。

 彼の上映会で上映された監督さん達の多くはプロの世界に足突っ込んでいて(頑なに自主を続ける人もいる)何人かは世界的に注目されている人もいる、ちょいと次元は違うがその注目のステップアップ?にもなりうるミニシアターがますます苦しくなる実情を今日の新聞のコラムで拝見したり、時代とともに一つの表現方法である自主映画と言うコンテンツがさらされる風当たりがあまり注目を浴びないにせよ変化している中、しまだゆきやすと言う男がして来た事の想い出がここで終焉されるのだろうか、彼の功績が反映されるのだろうか、多分、何処かで燻っている、自主映画と言うコンテンツが死ななきゃ少なくとも俺の中にはあるよ、とりあえずは、さらば兄貴。

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